生まれる前
僕が彼女と付き合い始めてまだ一ヶ月も経っていない。



僕は母とは違い、ホグワーツにいる間は誰とも交際をしないつもりでいた。そうすることで当時の母を知る先生方に、僕は異性に現を抜かすことなどない生徒なんだと、母とは違う印象を植え付けたかったからだ。そう、特にあのスラグクラブに招待されてしまい、その理由がほぼ母にあったからには・・・。

母親譲りなのだろうが、僕は異性に人気がないわけではない。これまで幾度となく告白を受けてきた。健全たる男子だ、多少は心が揺らぐこともあった。少々もったいないと思いつつも信念を貫き通してきたのだ。



だが彼女の前ではそうはいかなかった。何故ならば───

「やっぱり・・・ダメでしょうか・・・」
「・・・いや・・・ダメとか・・・そんな簡単な言葉ではなく・・・」
「じゃあ・・・提議否決でしょうか・・・」
「・・・いや・・・そんな難しい言葉でもなく・・・」

いかにも勇気を振り絞って死ぬ寸前に慈悲を乞うような眼差しで見られると、ましてや相手があのだと、今までに経験したことのないほどの葛藤が頭を支配する。白状してしまえば僕だって前から気になっていたのだ。別の言い方をすれば“母とは違う”のを証明したいから誰とも付き合わないと決心したというのは単なるこじつけであり、本心は彼女以外とは交際しないんだと固く誓っていたのかもしれない。誰にも言わなかったことだし、言えなかったことだし、言うつもりもなかったことだし、これからも誰にも言わないつもりのことだが。

だが本心でなくとも体裁というものがある。今後も“母とは違う”自分の印象を確固たるものとするために、彼女の申し出を断るべきだったのだろう。

だが自分の信念は本心に負けた。

「え・・・ほ、本当にいいんですか?」
「二度も言わせないでくれないか」

恥ずかしいじゃないか。

「えっと・・・当たって砕けるだろうっていうつもりでいたから・・・びっくりしてまだ実感が・・・」

夢じゃないかと勘違いしたのだろう。彼女は自分で頬を思い切り引っ叩いていた。

「おい・・・」
「やっぱり痛い。夢じゃないとすると・・・いったいどうして私にOKしてくれたんですか?」

自分で自分を殴った彼女の白い皮膚が、そこだけ水彩絵の具をこぼしたようにピンクに染まっている。絶対に痛いはずだ。気付けば僕は自分でも意外な行動をとっていた。彼女の赤くなった頬に手を添えて、無意識のうちに唇を落としていたのだ。

自分が何をしているかに気付いて焦って顔を離してみると、彼女の頬は片面だけでなく、両側とも満遍なく朱を帯びていた。

「び、びっくりしちゃうじゃないですか・・・けっこう・・・大胆なんですね」
「いや・・・別に・・・」

弁解のしようがなかった。
しかし彼女の照れたようなはにかんだ微笑に心臓が飛び跳ねそうになるが、一応は断っておきたいこともあった。彼女の顔を見ると言いにくかったが、目を逸らして頭を掻きながら伝えた。

「僕だって君が気になっていたし、付き合いたいと・・・思う。だけどこのことは誰にも知られたくないんだ。辛いかもしれないけど、僕は卒業するまでは堅実硬派な印象のままでいたい。それが嫌なら・・・やっぱり僕たちの交際はなしだな」

何をもったいないことを言っているんだ僕は!
と後悔しかけたのもほんの数秒、すぐにホッとする答えが返ってきた。

「私はあなたのそばにいられるのならばまったく気にしません・・・ブ、ブレーズ・・・」

恥ずかしそうに僕のファーストネームを呼ぶ彼女を見ると、自然と僕の口からも彼女のファーストネームが突いて出た。

・・・」

彼女は至極嬉しそうに僕を見上げた。
また心臓が飛び跳ねた。



僕がこんな酷な条件を出しているというのに、はいつも嬉しそうにしてくれる。
誰もいない廊下で誰かが来るまで小さな会話をしているときや、授業中に目が合ったときには誰にも気付かれないように小さく手を振ってきてくれたり、その様子も見とれるほど可愛いのだが、こういう関係になって一ヶ月が経とうとしている今、初めて長い時間を二人で過ごしている。

誰にも見つからないだろう地下牢の空き教室で大鍋セットを広げ、この世の幸福を独り占めして罪深い私ですが噛み締めずにはいられません的な表情でケーキを焼いてくれている。

「もう少し待っていてくださいね、ブレーズ・・・」

ケーキ特有の生地の香ばしい空気がこの地下牢教室を埋め尽くす。そして少し焦り始める。
地下牢の空き教室を選んだのは普通の教室とは違い、窓から覗き込まれることがないだろうという理由からだった。しかし今やそれは仇となり、換気をどうするべきかと考える。普段魔法薬学で放出されるような匂いではなく、明らかに空腹を刺激して唾液で口内が満たされてしまうような匂いなのだ。簡単な呪文ですら思いつかなくなっていた。少し考えると簡単なことなのだが、焦っているときは頭の回転が空振りしてしまうものである。

「なぁ。匂いが充満して・・・ヤバくないか? 誰かに嗅ぎつけられそうなほどいい匂いがするが・・・いつできるんだ?」
「もうすぐです、ブレーズ。匂いは気にしないでください。大丈夫、あなたの素敵なお肌の色のような、とびきりのコーヒー豆を月刊魔女の通販で手に入れたんです。そのコーヒーはどんな匂いも消してくれるんだそうです。私は・・・あなたと過ごせているこの空間をちょっとの間だけでももっと実感していたいから、そのコーヒーじゃなくて大好きな紅茶にしたいですが、ブレーズ・・・あなたはどっちにしますか?」

少し憂いを含んだような表情で僕を見上げられても、やはりコーヒーを選ぶべきだろう。僕だって本来ならと同じように一種の幸せを感じられるこの匂いに浸っていたいところだが、せっかく六年以上も守り通してきたイメージを壊したくはない。あと一年ちょっとの辛抱だ。



ケーキも出来上がり、は嬉しそうに用意してきたカップにコーヒーを注ぎ、ケーキよりも食べてしまいたくなる極上の笑顔で僕に振舞った。なるほど、美味しいがケーキの後味がなくなり、この空き教室も甘ったるい匂いが消えてきている気がする。コーヒー独特の香りでカムフラージュするのではなく、完全なる消臭効果のある特殊なコーヒーなのだろう。

「いっぱい淹れちゃいました。もったいないし、あなたがそんなに匂いのことを気にするのなら、たくさん飲んじゃってくださいね!」

僕は微笑みで答えた。



は僕が飲み干すと、奉仕するのが生き甲斐かのように嬉しそうに二杯目、三杯目と注いでくれる。美味しいしが淹れてくれるのだから幸せなのだろうが、だんだんとそうは言っていられなくなる。腹いっぱい、とかそういう問題ではない。コーヒーには利尿作用がある。魔法界の特殊なコーヒーと言えども、そこは通常のコーヒーと同じ働きをするのだろう。そう・・・僕は・・・生まれそうなのである。

はそんなことは気付いていない様子で、飲む手を止めた僕を少し訝しげに見つめ、少し首を傾けた。

「飽き・・・ちゃいました・・・か・・・?」

いや、そうではないがちょっと遠方に行ってくる、すぐ戻ってくるから心配しないで残りのコーヒー淹れて待っていてくれないか───と言おうと立ち上がった瞬間、廊下で声が聞こえた。

『そうですかそうですか! いやはや、こんなに土産をもらったというのに、こちらからは何も手土産を持たせてやれんとは! いらない? いやいや、それじゃ私の気がすまない。さて何を───』

スラグホーンの声だった。どうやら来客を帰らせるところらしいが、廊下に出たまま話が終わる気配がない。

「どうしましたか、ブレーズ。急に立ち上がって・・・」

勝手に教室を使い、しかも女とティータイムを楽しんでいたのが知られるのが怖い。乗り気ではなかったがスラグクラブに招待された身としては、そしてその理由が母であり、でも実際母との違いを見せようと足掻いてきた身としては、こんなことで努力を無駄にはしたくなかった。でも・・・もう無理だ。生まれる。

「ブレーズ? 何だか顔色が・・・こんなに汗まで・・・ねぇ、私の作ったケーキかコーヒーが悪かったのですか? でも私は別に具合は悪くなっていませんし・・・実はまったくお口に合わなかったとかですか? 無理させちゃっていましたか?」

、ごめん。悪気はないんだ。ただもう僕には反応する余裕さえない。
今すぐ飛び出してスラグホーンにとの仲を知られるのをとるか、それともこの拷問に必死に耐えるか。そのとき思い出した。が僕と同じスリザリン生であることを。はきっと心の中でずっと僕との仲を公言したかったに違いない。紅茶かコーヒー、どちらをとっても公言してしまう結果に繋がることに行き着いた。故意ではなさそうだが、結果的に“どんな手段を使っても”という心理が知らず知らずのうちに働いていたのだろう。

汗がダラダラと流れてくる。どうするべきか未だ決めかねている。
まずい、生まれてしまうだろう十秒前だ。心の中でカウントダウンが始まった。