物心ついた頃からずっと、兄さんの所有物や何やが欲しくて欲しくてたまらなかった。

僕と兄さんは基本的に同じ容姿をしているというのが一族の大人達の見解だったけど、正直なところ僕はそう思わない。兄さんは僕に無いものを山ほど持っている。人を引きつける瞳も強そうな腕も自信に満ち溢れた笑みも自由に空を駆け抜ける箒の才能も、何一つ僕にはないのだ。
僕が兄さんに抱くのは当然のごとく羨望だった。妬むにはあまりにも遠く離れ過ぎていたからだ。対象との距離は時に人を酷く盲目にする。
しかし手に入れたいと熱望したものも、実際に手に入れようと努力することはない。瞳の光や才能といった類のものを手に入れるのは考えるまでもなく不可能だったし、物理的所有物は兄さんが飽きるのを待てば事は足りた。
つまり僕には野望が無い。これも兄さんだけが持つものの一つだ。

そうやって汗をかくことも涙を流すこともせずに手に入れたものを、僕は簡単に捨てる。正確に言えば、兄さんがそれを手放した瞬間に僕は興味を失う。それが兄さんのものではなくなった時、僕にとっても必要ないものになる。
手にしては捨て手にしては捨てる。そんなことを幾度となく繰り返しているうちに気づいたのだ。僕が本当に欲しているのは兄さんの所有物ではなく、兄さんのようになることだった。


そんなことはわかっていた、わかりきっていたのに、

僕は性懲りもなく彼女に恋をした。
世界中の煌めきをその小さな胸にかき集めたような、兄さんのに。


*


彼女の存在は、ホグワーツに入学するずっと前から知っていた。学校が休みになって兄さんが家に帰ってくるたび、ふくろうが恋人からの手紙を配達してきたからだ。綺麗な花柄の封筒には、これまた美しい字で表書きがあった。

   シリウス・ブラック様
    より、愛を込めて

手書きだとは思えないほど完成されたその字が、僕の知る彼女の全てだった。


ホグワーツに入学して実際の彼女を知ってからも、イメージにはさほど変化がなかった。


兄さんの後姿が彼女の名を呼ぶと、の背からは輝かんばかりの感情が溢れ出る。は兄さんが大好きで、兄さんも彼女が大好きだった。愛していると言うにはまだ足りない、透明に透き通る綺麗な恋心。
そう思っているのはきっと僕だけじゃない。多かれ少なかれ、周囲の人は皆同じように感じているだろう。
彼らの恋はきっと愛に変わる。何の根拠も無いそんな確信。
それほどに彼らは彼らだった。


*


「ねぇレギュラス、魔法薬学教えてくれない?」
昼休み、埃っぽい図書館の机で天文学のレポートを広げていたら、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「もしかしたらは気付いていないかもしれないけど、僕は君より年下だよ」
年下に勉強を教えてくれと頼むに半ば呆れて言うと、は「あら、それは気づかなかったわ」と笑う。
「あなたは私より学年は下だけど、魔法薬学にかけては私なんかの比じゃないって知ってるのよ」
の唇が言葉の続きを綴ろうとして開く、しかしそのまま音を紡ぐことなく何か固いものを飲み込んだかのように閉じられる。
さっきのような台詞の後にはいつでも“シリウスから聞いたの。”という言葉が続く、筈だった。けれど彼女は魔法薬学の教科書をめくるばかり。愛の妙薬の生成法はこの本には載っていないというのに。

真っ直ぐに走ってきたレールが、これからも一直線に走っていく筈レールが、暑さで歪んだ拍子に小さく軋むのを聞いた。






昼休みにに魔法薬学を教えていた時に感じた違和感は、夕食の時間になっても僕の中でやたらと存在感を発揮していた。と兄さんの間に何かあったに違いない。
グリフィンドールのテーブルに座る兄さんの様子を窺ったが、ソーセージやパンに囲まれてポッターやルーピンと談笑する兄さんはいつもと変わらない。
しかしその隣にの姿はなかった。授業後に教授と話し込んで夕食に遅れているのだろうか、それとも図書館だろうか。と兄さんはいつも隣に座って食事をとるから、一緒に座っていないということは即ちどちらかが遅れてくることを意味していた。
がいないなら見ていても仕方がない。そう思って僕は早々と食事を切り上げた。
カチャリと小さな音をたててフォークを白い皿の上に置いて、隣に座って食べていた友達に「図書館にいるから」と簡潔に一言告げてから椅子を立ち上がった、その時。

「あはは、違うってば。まったくリリーは早とちりなんだから――」

グリフィンドールのテーブルから発された笑い声が僕の耳に飛び込んできた。それは紛うことなくのもので、僕が視線を走らせた先にはやはりがいた。
急いで兄さんを見るとやはり、やはりそうだった、僕の推測は完璧に当たっていた。
兄さんの視線が注がれる先は間違いなくだった。しかしその瞳に暖かさなどは微塵もなくて、只々冷たく、そしてまさかの侮蔑と憎悪までもが込められているような気がして、

動悸が、とまらない。
両手を握り締めると汗で滑る。

と兄さんの不仲を僕は喜んでいいはずなのだ。僕はが欲しいのだから、が好きなのだから、喜ぶべきなのに。それなのに、怖い。怖くて怖くて仕方がないのだ、が兄さんのものでなくなることが。
例えばが僕のものになったとして、兄さんに捨てられたを、兄さんのものじゃないを、僕のを、愛せる自信がない。
兄さんとが離れた瞬間に、僕の恋も終わりを告げてしまったとしたら。

そこまで考えてから気付いた。僕は今、を兄さんが飽きて捨てた物と同じに扱っている。自己嫌悪した。は人間なのに、僕が愛する人なのに。


「――ラス、レギュラス!」
友達の声で我にかえった。
「どうした、大丈夫か?」
「あ、あぁ。ごめん、ちょっと考えごとを」
「はは、恋煩いか?ほどほどにしとけよ、お前はいつだって考えすぎなんだから。」
「…そうかもな、ありがとう。図書館に行ってくるよ。」
考えすぎると脳が溶けるぞーという声に見送られて食堂を出る。
そうだ、きっと僕は考えすぎだ。兄さんとが別れたかどうかなんてまだわからないんだから。さっきのはただの痴話喧嘩で、明日になれば2人はまた微笑みあって談笑しているかもしれない。きっとそうだ、そうに違いない。
兄さんの凍り付くような瞳を頭の片隅に追いやって、思考に蓋をした。
さぁ、天文学のレポートを仕上げてしまおう。


*


気が付くと、辺りは真っ暗だった。どうやら眠ってしまっていたらしい。長い間閉じていた瞳にはランプの細い光さえ眩しくて目を細めた。普通に考えて、図書館の閉館時間はとっくに過ぎている筈だ。僕が今座っているのは図書館の最奥、立ち並ぶ書架の死角になる位置だから、司書が見逃したのかもしれない。
そんなことを取り留めなく考えながらふと左に目をやった、その時。

僕は勢い良く立ち上がった。その拍子に倒れた椅子がガターンと大きな音をたてた。
「どっ…どうして君が!?」
今の今まで僕が座っていた席の左隣に座って机に頬杖をつきながら僕を見上げるのは、以外の何者でもなかった。
窓から差し込む月の光に生える艶やかな黒髪。
、もう消灯時間は過ぎてるんだろう?」
「えぇ。でも大丈夫、防音呪文をかけておいたわ」
は微笑む。だけど残念ながら、その笑みは失敗作だと言わざるを得ない。口角を上げる角度は完璧だが、切なげに寄せられた眉と潤む瞳が全てをぶち壊してしまっていた。
僕は黙って椅子を引き起こして座り直した。机に両腕を乗せ、に目線をあわせる。

「なぁに、レギュラス?」
「何かあったんだろう?」
兄さんと、とは敢えて言わなかった。それ以外に無かったからだ。
僕のその問いは、の顔から出来損ないの笑顔までもを奪い去った。力無く半開きになった唇のすぐ側を、一筋の涙が伝ったのが見えた。
「シリウスには、もう私は要らないの」
「私にシリウスが要らなくなったのと同じに」
「だから別れることにしたわ」
「シリウスとはさよなら」
広い図書館の中、ぽつりぽつりと言葉が響く。
少しずつ少しずつ、金星の自転よりもゆっくりと成長してきた2人の愛。それが凍りついてひび割れるのにかかった時間を、僕は知らない。僕にわかるのは、これが最も恐れていた事態だということだけだ。

はもうシリウス・ブラックのものではなくなったのだ。
僕はまだを好きか?兄さんが捨てたに興味を失ってはいないか?まだ愛していると、全てを賭けて言えるだろうか?本当に?
返答の無い自問自答を繰り返す。僕には自分がわからないのだ。

「レギュ、ラス」
消え入りそうな声でが僕の名前を呼んで、僕の肩に寄りかかってきた。声だけでなく自身までもがこのまま消えてしまうのではないかと、僕は恐れを抱いた。彼女の頬を伝う涙は止まることを知らない。
「ごめ、なさい、レギュラス」
理由も無く、あるいは僕には知りようもない理由で、は謝罪する。
そっと優しく触れるだけで辺りに帰化してしまいそうだなどと考える脳とは裏腹に、僕の腕はを抱き寄せていた。
「大丈夫。大丈夫だよ、。」
何の根拠も無く、あるいは誰も知り得ない根拠を持って、僕は断言する。他に出来る事がなかったのだ。

そして、それはロンドンの夕立のように唐突だった。
僕は気付いた。
胸の中に収まるは、兄さんのものでも僕のものでもなく、只単にだった。安堵した。
初めから何も、関係なかったのだった。僕の羨望も兄さんの冷たい瞳も何もかもと遠く離れた場所で、僕は単純に彼女に恋をしていた。

だから僕は君が、

いまも、すきだよ




20081120