「『 君を愛してるんだ』」
「……は?」
「 て言われたの、先週。ケビンに。あー、美しいって罪よね。ねえ、あたし、どうしたらいいと思う?」
「それをどうして俺に訊くんだ」
こいつ、本気で分からないとでもいうのか。この天然ハゲ男め。
ロンドンの町並みは変わらない。絶え間なく流れる人混み、その空隙を縫うようにして歩くあたし。変わったことといえば例えばお気に入りの雑貨屋が消えたことだとか、待ち合わせ場所の定番だった中央の噴水が今やグリフィンの像に置き換わったことだとか。あとは、そう、それを眺めるあたしの背が伸びたこと。
それから、もう一つ。
「 まだか?その、レコード屋っていうのは」
そっけなく、といったつもりはないのだろうが、声に疲労をにじませて傍らのキングズリーが言った。
「もうちょっとだってば。あと少しだけガマンして」
「だってオマエ、駅からは五分で着くって……」
「なによ、あたしひとりなら五分で着くわよ!あんたがちんたらちんたら歩いてるからでしょ!」
は詰るつもりで怒鳴りつけたが、キングズリーは反論する気力すらないのかこちらをちらりとも見なかった。ただでさえ小柄なは、意識して見なければ長身の彼の眼には決して映らない。その黒い顔を斜め下からイライラと睨んでいると、すれ違いざまに若いカップルの肩に思い切りぶつかってしまった。
「す、すみません!」
「人には偉そうなこと言って、オマエこそ前見て歩け」
「うっさい!誰のせいだと思って……」
「ほら、また」
うめくように言って、キングズリーが強くあたしの腕を引いた。どきりとしたのも束の間、つい先ほどまでが歩いていたところを慌しげにスーツ姿のサラリーマンが駆け抜けていく。は反射的にキングズリーの手を払い除けながら、ふんと顔を逸らしてまた大股で歩き出した。
腹が立つ。あたしの方がマグルの世界に詳しいのに
(当たり前だ。あたしはマグル生まれ)
おかしな格好でウォーレン・ストリート駅に現れるキングズリーを想像しては笑っていたのに
(なんで完璧なマグルの格好で来るの!?)
手馴れた様子で切符を改札に通すのを見たときは屈辱というかなんというか
(だからせいぜい苦手な人混みに苦しめ)
ざまあみろ!
本当は次の角を曲がったところにあるレコード屋に行こうと思っていたのだけれど、ここからさらに二キロほど離れた店にしよう。は「あと少し」と言いながら、ごみごみした通りを真っ直ぐに突き進んだ。
(分かってるよ。やな女だって)
彼の苦しむ姿が見たいの。
(だってあたしは苦しいもの)
嫉妬のひとつもしてくれないあなたの隣にいたら。
「はあ……オマエ、まさかこの距離を五分で行けるって?」
「調子がいいときは三分で行くわよ」
「絶対に嘘だ」
「あんたはあたしのこと、何にも知らないから」
はっきりとこめたはずの棘に、あなたは気付いてる?
「ああ オッケーしちゃおうかな、ケビンのプロポーズ」
半年も前から楽しみにしていたレコードを手に入れて、近くのカフェでアイスコーヒーを買った。結露のにじんだ手のひらをカップの側面でこすりながら、キングズリーとふたりで川沿いを歩く。子供の頃からずっと慣れ親しんできた風景。初恋の男の子と泥まみれになって駆けずり回ったのも、この草原の上だった。
沈みゆく夕焼けを背景に、彼の作り出す長い影があたしの横顔に差し込む。は真っ直ぐにその影の先を見ていた。
「受けたければ、受ければいいじゃないか」
そう こいつは、昔からそうだった。
あたしの気持ちなんてちっとも知らずに、いつも当たり障りのない答えばかり。
要はあたしのことなんて、どうだっていいのね。
「俺 正式に、闇祓いとして採用されることになったんだ」
ぼんやりと遠くを見つめたまま何も言わないあたしに、キングズリーは突然、そうつぶやいた。
意味が、分からない。あなたは確かに、魔法省に入省したと言ったけれども。闇祓い?なにそれ。だってあなたは、魔法運輸部に行きたいと言っていたじゃないか。
「だからしばらく、会えなくなる」
だから、って 意味が、分からないよ。どうしてあなたが、闇祓い?だからってどうして、会えなくなるの?
「闇祓いになったら、少なくとも二年は外部との接触を断っての訓練に参加しなければならない。その後も、いつ任務を離れられるかはまったく分からない」
声も出せずに立ち尽くすに、キングズリーはひっそりと言葉を続けた。学生の頃からごくまれに口にしていた、あのゆったりとした深い声で。
「祝ってやれなくて、ごめんな」
怒鳴ることさえももう、忘れてしまった。あたしの手元に残ったのはただ、あの日のレコードが一枚と、たった一度ホグワーツの庭で撮った、二人だけの写真。
大声で泣けば何かが変わったか。この手を伸ばせば彼を引き止められたか。そんなことは、いくら考えたって巡り巡って同じところに戻るだけだ。
彼は死ににいった。たとえそれが、何かを護るためだとしても。
伝えることが、怖かった。
あれは精一杯の 七年分の、思い。
『オッケーしちゃおうかな、ケビンのプロポーズ』
他に何も、言えなかった。
祝ってやれなくて、ごめんな。お前が幸せになるとして、それを祝ってやれない小さな俺を、どうか笑ってくれ。
『あたし、好きだな。あんたのその声』
ごまかしようのないほど大きく打ち震えたこの胸を 俺は。
震える心は、動かず逃げた。
(ファースト・ウォー真っ只中。『例のあの人』没落前。)