眼差しは強く優しく心地よく
「ほれそこの令嬢、泣くということは応戦せずして白旗をあげるということか!」
「私の名前は令嬢なんかじゃありません。・です・・・」
消え入るような震える声で密かに抵抗してみるも、何の手助けにもならなかった。
はグリフィンドール寮の前で立ち往生している。太った婦人がシリウス・ブラックに襲撃され、新たなグリフィンドールの門番を買って出たカドガン卿は性分からか、意気揚々としてその任務に就く。一方諸手を挙げてカドガン卿を歓迎しているグリフィンドール生はほとんどおらず、まともにカドガン卿の相手をする生徒は皆無に等しかった。・を除いては。もっとも、は相手をしたいのではなく、生真面目で優しい性格と、グリフィンドール生らしく勇気を試してみたかったという少しばかりの修行ならぬ賭けしてしまったのが原因で、結果的に立ち往生している。
やっぱり私には勇気なんてなかったんだなとは肩を落とすものの、決して合言葉を言おうとしない。合言葉を言って中に入れば楽なのだが、それでは勇気を振り絞って果敢にもカドガン卿に挑もうと思った気持ちが無駄になるというものだ。
「若き者よ、今立ち上がれ! そして我が軍に栄光をもたらすために剣を振るうのだ!」
「オヅボディキンズ」
「無念っ!」
普段ならば交戦を望んできても相手をせずに合言葉さえ言えばすんなりと前に倒れて通してくれるのだが、あえては合言葉を言わずにどこまでカドガン卿についていけるか試してみる。
「ジャンヌダルク、いや、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ! 戦いに赴くならばその前にこのカドガン卿と小手調べをしてからだ! いつでもどこからでもかかってくるがいい!」
は一瞬合言葉を言って逃げようかとも思ったが、何とか踏み留まった。その代わりにカドガン卿の威勢に押されて涙が出そうになり、言葉に詰まってしまって先の会話に繋がったというわけだ。
・という少女は気の小さいグリフィンドール生だ。真面目すぎるところがある故にジョークが通じにくい節もあり、感情が高ぶっているような人を見るとおどおどとしてしまうのが欠点だとわかっていた。そしてグリフィンドールに組み分けされた理由も見出せず、せめて胸を張ってグリフィンドール生ですと言える何か、些細なエピソードでもいいから欲しかったのである。
一方カドガン卿と言えば、普段なかなか立ち止まって自分と剣を交えようとしないグリフィンドール生たちの中で、ようやく合言葉を自分から言おうとしない少女に出会えて内心小躍りしていた。この少女は本気で合言葉を忘れているのか、はたまたグリフィンドール以外の寮生が混じりこもうとしているのか一瞬考えたが、今まで何度もこの少女がここを通るのも見たことがある気がしたし、どうやら合言葉を忘れたようでもない、すなわち自分と真っ向から戦ってみようとの意思を感じたのだ。そんな勇者をカドガン卿が見逃すわけもなく、普段よりもボルテージを高めに少女に戦いを挑んだ。
涙ぐむ少女に少々罪悪感が芽生えたが、カドガン卿はそれも気合で打ち消し、今ここで取り逃がしたら次はいつまともに勝負してくれる生徒が現れるだろうと考え至った。
結局この日はめそめそ泣きながらも必死に立ち向かってこようとする意気込みだけは感じ、そうしているうちに彼女の友人たちが心配して探しに出てきたところで連行されてしまった。
「白旗を揚げてもいない勇者になんたる扱い! 負けとは決まっていないのに勝手に強制連行とは、騎士精神に反するぞ、そこの若輩ども!」
いくら絵画の中から騒いで抗議をして見せても所詮生身の人間とは違う。
カドガン卿は我に返り、過去を見ずに未来の来たるべき敵を見据えるように額縁の真ん中に太った仔馬と並んだ。
はその後も一日一度は必ずカドガン卿から逃げないようにした。カドガン卿も次第に少女が相手をしてくれに来るのを楽しみになっていった。まだ一勝もできないだが、けなげにも諦めることなく、そして飽きることなくカドガン卿に正面から勝負を挑んだ。とはいえ、ほとんどの場合がは無言で目に涙を浮かべているだけで、カドガン卿は威勢の良い言葉を好き放題並べているという、周囲からするととんでもなく無駄な時間が過ぎていただけだが。
ところが状況は一変してしまった。の下級生であるネビル・ロングボトムという少年の不注意で、目下の最大の敵であるシリウス・ブラックの手にパスワードリストが渡ってしまい───
「これはこれは見かけぬ勇士殿。この城は私が人生をかけて守るべく、鎧をただし兜を被り、侵略者には容赦なく火による拷問、水による拷問、爪剥ぎによる拷問が待ち構えている!」
「下賎な犬め。不埒な猫の群れ。あられもないメス豚。・・・違うのか・・・じゃあ───」
そしてカドガン卿はパスワードを一週間分言い終わった男に道を譲った。正しいパスワードを言えば通すと言うルールは、騎士として守らねばならぬ軍訓である。
「カドガン卿、あなたの言い分もわかりますが、太った婦人ならば明らかにホグワーツ生徒ではないものなど入れないように抵抗をするでしょう。しかもこのようなご時世です。確かにパスワードを正確に唱えることが条件ではありますが、この様子ではカドガン卿、とんでもない人物を入れてくれたという自覚すらお持ちではないのでしょうかね!」
「ご婦人、とんでもない人物とは、やはりあやつは勇士の風貌も仮面であり、侵略者だったのですか!」
カドガン卿はたいそう自分の人を見る目が鋭かったことに誇りを感じたが、結局せっかく与えられたグリフィンドールの職務から降ろされてしまった。またあの、八階の寂しい踊り場行きが決定してしまった。
「、どうしたの? 最近なんだか表情が暗いよ?」
心配してくれているのはいつもを延々と続く不毛な勝負から引き戻しに来てくれた友人の一人だ。は友人の言葉で初めて自分の表情に気づき、そうかな、そんなことないよと力なく笑った。
「授業で分からないところでもあるの? それとも誰かに意地悪されてたりする?」
「何でもないってば。ほらね、気のせいよ」
は先ほどよりも無理して笑顔を作って跳ね飛ばした。
しかし太った婦人の前に立ったとき、は再び表情を暗くし、目にうっすらと涙が浮かんだ。
「ははーん」
友人は女の勘が働いた。気の小さいのことだ、カドガン卿の威勢に押されていつも立ち往生していただけだと思っていたが、まさかとは思うが、もしかすると立ち往生していたというのは彼女の意思だったのではと思い、太った婦人が道をあけたにも関わらず、の手を取り南塔の近くまで引っ張っていった。
「ねぇ、何? 何かあるの? 忘れ物でもした?」
「そうねぇ、忘れ物といえば忘れ物よね。あたしじゃなくてあんたがね、!」
「私、何も忘れ物なんてしてないけど・・・」
八階に到着したとき、懐かしい音が聞こえてきた。カチャカチャという鎧が擦れる音とポニーの鼻息。は心なしか心が弾んでいる自分に驚き、その眼差しを友人に向けた。
「ああ、あたしは面倒に巻き込まれたくないからここまで。でもあんたは自分できちんと忘れ物を取ってくるまで戻ってきちゃだめよ!」
友人は悪戯っぽく笑い、手を振りながらUターンしていった。
「お久しぶりですな、勇敢な少女よ!」
カドガン卿は見覚えのある少女が近づいてきたことに少し興奮を覚えながら戦闘ポーズをとった。
「私、どうやら忘れ物したみたいなんです。友達は私が忘れ物したって言うのだけど、私は何を忘れたのかまだ心当たりがなくて・・・カドガン卿、私、この辺に何か忘れ物をしましたか?」
あれだけグリフィンドールの番をしているときは言葉数が少なかった少女が、今は泣きもせずにカドガン卿と対峙している。そのことにカドガン卿は少し目を丸くしたが、少女というものがこれほどまでに成長著しいものだということに誇らしさを感じた。
「忘れ物とやらは預かってはおらぬが、このカドガン卿と正々堂々と勝負すれば、今よりも忘れ物を見つける活力が宿るであろう! さあ、どこからでもかかってくるがいい!」
カドガン卿は普段誰も通らないこの踊り場に人が来たこと、そしてそれが自分と相手をしてくれていた少女であることに、ポニーにしか分からない程度に嬉しさを滲ませていた。
は不思議と居心地のよさを覚え、それでも戦闘となるとカドガン卿の威勢に負けそうになりながらも、カドガン卿がグリフィンドールからいなくなってから空いてしまった心の空間に気づいた。そう、は自分がおろおろしても泣いたとしても慰めるようなことはせず、いつも自分を奮い立たせるような強い言葉をかけてくれていた相手がいなくなったことが寂しかったのだ。
「そっか・・・」
「何ですか、勇敢な少女。もしや戦わずして忘れ物の在り処を突き止めたとでも?」
カドガン卿は少女の表情に驚いた。めそめそしている姿しか記憶になかった少女は、自分に微笑を向けている。
「いや、笑顔という武器は存在しない! 剣を持て、そして振りかざすのだ!」
カドガン卿は少女の笑顔に思わず兜の中で顔が綻んだが、気を取り直して再び戦闘体制に戻る。
この日はひたすら微笑を向けると剣を振り上げるカドガン卿だった。お互いに寂しさから解放され、他人から見ると無駄な時間だったが二人にとっては楽しく有意義な時間となった。
その後も毎日は八階の踊り場にやってきてはカドガン卿と、傍から見ると無意味にも思える時間を過ごした。
寒々しい景色から緑も鮮やかに蘇った六月に入り、ホグワーツ特急に乗って長い夏休暇に入るのを目前としたある日、はいつものように八階の寂しい踊り場まで足を運んだ。
「カドガン卿、今日はお話がしたいです。剣を降ろしてくれませんか?」
は少し悲しげに、しかし決意に満ちた眼差しでカドガン卿のいる絵画に近づき、初めてその額縁に手を触れた。
「私はこう見えてもグリフィンドール生なんです。今まで勇気らしい勇気なんて自分にはないって落ち込むこともあったけど、それに冒険だってそれほどワクワクしない方だからグリフィンドール生だって胸を張って言えないって思っていたけど、でも私はやっぱりグリフィンドール生なんです」
カドガン卿は少女が何を言い出すかと少し訝しげに剣をしまい、またがっていたポニーから身を下ろした。
「それに・・・私、女の子です」
「心配することなかれ、男性には見えませんぞ!」
はクスッと笑った。
釣られてカドガン卿も少しだけ笑みをこぼした。
「女の子は、憧れている人の傍にずっといれたらなって思います」
「騎士道というものは憧れの対象から身を遠ざけてその人物をお守りすることを由とする」
「でも例えば自分の憧れる人が騎士だったら、その女の子は離れているととっても辛くて切なくなるんだろうなって思います」
この少女は何を言っているんだろうと不思議そうな顔をするカドガン卿を尻目に、はなおも続ける。
「えっと・・・何が言いたいかと言いますと・・・私、寂しいのは嫌なんです。それから、その憧れの人に寂しいと感じさせるのも嫌なんです。だから・・・その・・・長いお休みに入ると、カドガン卿・・・あなたはまたこの誰も来ない踊り場でそのポニーさんと二人きりになるでしょう? それに私が来年卒業しちゃったら益々そんな寂しい時間も増えちゃうんじゃないかって・・・でも・・・あなたは絵画から飛び出して来れないし・・・私もそっちに行ってみたくても入り込むことなんてできないし・・・だから・・・どうやったら私もあなたに触れられるのかなって思って・・・」
はカドガン卿の手があるところに自分の手を重ねてみた。カドガン卿は驚きのあまり思わずその手をずらした。
「こうやって握手することすらできないなんて、悲しいと思いませんか?」
「握手という行為は平和協定を結んで騎士という存在が不必要になったときだけに許される」
カドガン卿の声は少し自信なさげだった。
は続ける。
「あなたがどうやって絵画に住むようになり、命を吹き込まれたのか知りたいんです。私もいずれは絵画として魂を宿らせ、そしてあなたと一緒に・・・ここを通る生徒に戦いを挑んでみたいんです! じゃなくって、本当は・・・あなたに寂しいって思ってほしくないんです!」
カドガン卿にとって、長いホグワーツの歴史の中でこんな少女が現れたのが初めてのことであり、どういう態度をとっていいものかと悩んだ。それと同時にカドガン卿に真正面からぶつかってきた勇者もそれほどいなかったが、こうやってカドガン卿を黙らせることができたのもが初めてだった。
しばらくの沈黙のうち、は時計を見て慌てたようにお辞儀をし、グリフィンドール寮のある方向へ走っていった。カドガン卿は兜を脱いでポニーを撫でながらしばらく考え込んだ。
そしてカドガン卿は他の絵画を伝って、クリスマスで共に祝杯をあげた僧侶たちや歴代校長たちに頼んでダンブルドアを人気のない八階の踊り場まで呼んだ。